努力が努力でなくなるとき

いかがお過ごしですか?

 

今日は5時に起床。

平日でも週末でも就寝・起床時間は変わらず、ほとんど同じペースで過ごしています。

自分の中で午前中の早い時間、特に朝の使い方が1日の鍵となっています。

朝、しっかりと本を読んだり、パソコン作業を7時までに終わらせて、

頃合いを見ながら少しずつ身体を動かしていくと

自分の練習をする頃には良い状態を作ることが出来ている気がします。

そしてレッスンの準備をして、みなさんをお迎えする。

最近はそんな午前中の使い方になってきていますね。

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アサナの完成は、完成を目指すための努力が努力でなくなったとき成し遂げられ、そしてあなたの内なる無限の存在に到達するのである。

ヨガスートラ11章47

 

ここ1ヶ月くらい、ほとんど変わらず、同じアサナのシークエンスを日々練習してきました。

太陽礼拝A×5回、B×5回、立位のポーズ、アームバランス、座位のポーズ、後屈系、逆転系、リラックス。

痛みがある時や、どうしても時間が取れない時などは部分的に省略して、60分〜90分の練習を中心としています。

自分ではこの流れにとても満足していて、「満足していていいのかな?」というスポーツマン的根性というか、満足することに心配になったりもしていた。

というもの、自分がやっていることに満足するということを経験したのが初めてだったのです。

スポーツでも、仕事でも、常に上を目指し、効率化を図り、やってやってやって・・・の繰り返し。

満足する=そこで止まる

という思想すらあったので、自分がそんな気持ちになるとは思ってもいませんでした。

すごいぞ、ヨガ。

そして今朝、起きてすぐにヨガスートラ(これはレッスンでもお伝えしていますが、とても有意義なヨガ哲学書です。みなさん、ぜひ!)をパラパラと開いていると、上記の言葉と再び出会った。

どのページか忘れましたが、「アサナの練習中、呼吸が浅い時、あなたは呼吸になっていて、足首が痛いとき、あなたは足首になっている」という表現がされている箇所があります。

そんな状態を乗り越えた先に安定がある

そう解釈しているのですが、11章47節も同じ意味合いがあると感じています。

 

ちょうど昨日から思うところがあって「また新しいアサナ」を練習に加えてみたら

努力することの楽しさ

をまた感じはじめたのです。

 

昨日までは、努力を努力と思っていなかった部分が強い。

昨日からは、努力がまた楽しくなっちゃった。

 

そんな繰り返しの中で、きっと人生は進んでいくのですね。

行ったり来たり。

でもそれでいいのだと思っています。

心の中で哲学書通りのことを思い描いていても、だいたいがそういう状態にはなっていなく、情報に支配されている自分になってしまいます。

だからこそ、身体で感じていくことが大事だと。

この努力が、努力だと思わない日が来るかもしれない。

そんな未来が、ちょっとだけ楽しみになった今朝です。

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我が家には白米がなく、玄米や押麦、キヌアなどを主食としています。

だからリゾットを作る時も、玄米で。

この写真は夏休みにキャンプしている際に作った玄米シーフードリゾット。

昨晩も家で玄米リゾットを作ったのですが、

玄米の種類によって火の通りがかなり違う

という事実に気づきました。

関西のお米って、粒が小さいものが多い気がしているのですが、

粒の大きさと火の通りやすさは比例しないですね。

 

料理は「食材、そして火との対話」みたいな部分があるので、

レシピ本には載っていないこういう事を知れた時は、そんなコミュニケーションがうまくいった時なのだろうなぁ、なんて感じています。

 

三宮・元町は今日も雨。

しっとりとした土曜日です。

 

それでは今日も、ハッピーに!

 

ふちえりょういち